ヨーコールド

ブログです。気楽に生きたいです。

自分らしく生きる

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本と一緒に生きる

 

本屋が好きっていうのも自分らしいことの一つ。私の本能が本屋さんに向かわせる。本能といえばDNA。私が小学校に上がる前のこと。母の実家に年季の入った本棚があった。幅は90センチくらいかな??下の棚から上の棚まで小ぶりな本がギッシリ詰まっている。本棚は1つだけではなかったイメージがある。

 

母に「田舎のおばあちゃんの家に、本がいっぱいあったよね」って聞いたら、母は、おばあちゃんは貸本屋をやっていたから、その時の漫画の本だと言った。日本家屋特有の薄暗い部屋にあった本棚。私的には、映画館のスクリーンのような圧倒的な存在感。おばあちゃん家にあったモノで覚えているのは、この本棚と大きな羽釜が掛かったたカマドだけ。

 

私のスクリーンの中の黒っぽい本棚のそばに、白い障子があった。その空間はモノクロ。障子があって縁側がある。その先の明るさは目がクラクラするくらい輝く別世界。それらが一つの宇宙となって今も私の中に生きている。

 

私は本屋の常連さん。宝の山の谷間をスルスルと通り抜ける。立ち読みをする。ハッとする。ニンマリする。私は、秒速で気分が変わる。こんなふうに、私は運命の本と出会う。大股で歩く。心はスキップしながら。レジへの足取りは軽い。

 

「カバーおかけしますか?」との問いに、私は躊躇なく「お願いします」と応える。本屋さんがかけてくれるカバーといえば、ただの1枚の紙切れ。なのに、贈り物用に、のしをかけてもらうような付加価値を感じる。自分自身のために熨斗をお願いする。誰もが共有できた本が、恭しくのしをかけられると特別な存在になる。そんな魔力がなきにしもあらずな、恐るべしブックカバー。

そのような労力と紙の消費。このひと手間この一時、一見ムダともとれるこの行為。なのに、不景気と言われて久しい、こんなご時世なのに、この習慣を無くさないでいてくれる本屋さんに感謝したい。

 

時には複数の本を手にウキウキしながらレジの順番を待つ私たち。その本を大切そうに受け取り、嫌がりもせず丁寧に器用に本を包んで、優しい目で私たちに手渡してくれる。その時の嬉しさと充足感は輝く宝石のような時間。こんな貴重な店員と客のやりとりを、ただの浪費だと言って排除しない本屋さんの心意気に、私は、心からありがとうと言いたい。

 

書店は温かく人間くさい。レトロな雰囲気。本を書いたのは全て人間。買うのも人間。活字の向こうに何かあるような気がする。

 

本屋さんが駆け込み寺

 

 

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本屋さんに行くと落ち着く


本が好き。と同時に、私は本に救いを求めてるかも?って思った。本の中の言葉に今の気持ちが救われたりする。気が楽になったりする。それって本依存症なのかな? 私は、無条件で本が好き。本の好きな人は多いと思う。あなたも共感してくれますか?

 

バイブルのような本に出会った時、「やったー!」って思う。で、勇んで買って帰る。でも、人生ってそう甘くないんだよね。バイブルは一冊では済まない。一難去ってまた一難って言葉があるように、私はまた、本屋という駆け込み寺の門をくぐる。

 

本を買っては、少し読んで、あとは積ん読。気がつけば、狭いワンルームの床を最近買った本が占領している。片付かない部屋を見渡しながら、もし、これらの本を買っていなかったら??とバカバカしい空想をする。私の目の前には少なくとも1畳の床が広がっていた筈。

 

そんなに本屋が好きなら足の向くまま気の向くままに行けばいい。お寺にだってチャペルにだって行けばいい。行けるってことは「なんて自由なんだろう」って喜べばいい。

 

知らないで引っ越してきたこの街。ウチの近所には、大きな本屋が2軒もある。また、小さくても、話題の本を取り揃えた見過ごせない、どうしても素通りできない完全無視できない本屋もある。

 

本の数こそ大型店には負けるけど、コンパクト店なりに私の好奇心をほどほどにくすぐってくれる。時には、インパクトだって与えてくれる。お店側の本選びのセンスというか、私はこの本屋さんと相性が良いのかもしれない。

 

本屋は明るいイメージだよね。明るいと言ってもパチンコ屋さんほどではない。ネオンキラキラ、バブルチックなサウンドとド派手な照明でパチンコ好きを誘い込むほどの吸引力。それが、一見地味に見える本屋さんにもある。

 

だから、私たちは、フラフラ~っと入っていく。本屋の敷居はなんて低いんだろう。逆に、敷居が高くなったのが、コンビニの書籍コーナー。本を試し読みできないようにしっかりと幅広の透明テープで封がしてある。

 

最近コンビニに行くと、ガラス越しに見える雑誌コーナーが、やけにわびしく感じられて仕方がない。

これって、私の、ただの気のせい?

 

コンビニで立ち読みができようとできまいと、私には、寂しいと思う時間が増えた。私が若くイキっていた頃、決して弱みを見せなかった母。本当は寂しかったのね。今なら痛いほど分かってあげられる。気づくの遅過ぎ!あ~~~!後悔の念で窒息しそう。

 

誰かに聞いてもらいたい心の叫び。できれば気持ちを落ち着かせてくれるアドバイスがほしい。気軽にオープンに相談できる相手がそばにいてくれるだけでどんなに心丈夫だろう。悩みのジャンル別にいろんな人脈があれば、百人力。なんてね。実際問題、現実は厳しいのだ。結局、一人で悶々と苦しみ考え込むことが多い。

 

てな具合に、最近の悩みのテーマは重い。歳をとるってこういうことなんだと、まるで、常に崖っぷちの道を歩かされているような状況。日常に危険が潜んでいる。ビビったり、ため息ついたり、前を見れば怖いし下を見ればなお怖い。

 

「こんな道を選んだのは結局はお前だろ?」

かつてありとキリギリスという童話を読んだとき、まさか自分がキリギリスになるとは思っても見なかった!あれから半世紀!!!私何してたんや~?

 

無計画に生きてきたツケが、老朽化した身体と心に重くのしかかる。古い木造住宅に耐震補強が必要なように、人間という生き物である私にも思い切ったリノベーションが必要なのかもしれない。ここいらで私という人間を丸裸にしてみよう。そこから新しい何かが生まれるかもしれない。

 

コロナの波紋はどこまで広がるのだろう?本屋も休み、図書館も休みとくると気が滅入ってしまう。でも、いいこともある。6連休だ。自宅にこもってゆったりと過ごしている。久々の気楽さが戻ってきた。これが本来の人間の暮らしって感じがしないでもない。

 

今年に入ってから、徐々に膨らむ仕事のストレスがピークを迎えていた。個人的にも、緊急事態、異常事態発生だ。救急車のサイレンが鳴り止まない。

 

職場での鉄の重圧。ポジティブに考えようとしていた。己を強く逞しく磨くための修行だと思い込んでいた。でも、違う、「私は生身の人間!金属じゃない!部品じゃない!機械じゃない!」

 

人の命は儚い。もっと自分の命を大切にしようと思うようになった。家族と一緒に生きていきたい。家族を守りたい。いつ死期が来るやもしれぬ。だから、より自分らしく余裕を持って家族と接していたい。

 

そして、私は、ネットの本屋にアクセスした。